古い人間と呼ばれて

Webをくるくるしていたら「編集者の学校」などというところにたどり着いた。いわゆる名物編集長へのインタビューが掲載されているサイトだ。その中でも、花田紀凱見城徹という、毀誉褒貶はなはだしいふたりの編集長のインタビューを興味深く読んだ。
6月23日付の「酸性口」でも書いたように、読みたい主張しか読まないので、ここで引用するのはおれの我田引水曲解論である。
文春から朝日に移って雑誌を作ることになった花田は、規模と組織の大きさを比べて朝日は官僚的にならざるを得ないとして次のように語る。

ものごとを一つ決めるにも、やっぱりしかるべきセクションに何か所か行く。即断即決っていうのができない。一人の編集者が、自分の個性を発揮してやるというような仕組みがないんです。だから朝日の中では、雑誌作りはなかなか馴染みにくい。
雑誌っていうのは編集長の個性を出して、おもしろいのができたらやろうということでやらないと、おもしろくならないと思いますけど、そういうことがやりにくい。すべて衆議になってしまう。
出版局に400人もいるけど出版局長は最終的な決断をしにくい。ああだこうだと言ってるうちに、角が取れて丸くなってしまう。

いやもう、そのとおり。じゃあ、官僚的な出版社にならないようにするためにはどうすればいいのか。あるいは官僚的な出版社で角を取られないように主張するにはどうすればいいのか。てゆうか、規模が拡大した組織*1は必ず衆愚政治に陥るものなのか?
あるいは見城徹の次のセリフ。

僕等はその人に書いてもらって、作品を作ってもらってなんぼなわけで、別に善悪なんかどうでもいいわけですよ。殺人者でもいいし、変態でもいい。どんな奴でもいいんです。僕がいいなと思う作品を書いてくれさえすればいいんですよね。

こっちはむしろソフトではじまってバンクで終わる某出版社も抱える大親分の耳元で、声に出して読みたい文章。
いずれにしても、最後はヒトとヒトの繋がりなんだよなあ。その繋がり具合が読者に届けば、それはまた新たな繋がりになるんじゃないかな、なんて青臭いことを思ったりなんかして。

*1:もちろん錯覚も含む