感動のシチュエーション

「放物線は栄光への架け橋だ!」が頭の中でグルングルンしているわけです。まるで人気のない回転寿司のネタのように。
で、いろいろ考えちゃったんですけど、身体言語を一般言語が補完することで“感動”がより増幅されたのではないか。
あの着地が仮になんの音声もなしになされたとして、たしかに美しい放物線と美しい身体言語によって“感動”したかもしれないのだけれど、アナウンサーの絶叫がなければ総毛立つような感動はありえなかったのではないか。
たとえば、ロシアのシンクロは、異常なまでの美しさを有していたものの、“感動”とは程遠いところでナニカを感受していたし、女子床運動にいたっては、「あれはキダムじゃねーのか」とか「後藤真希なら、最低3回は見たいですね、とか言うね。まーちがいない」とか、目は釘付けのままくだらないことを言っていられたわけで。
それはおそらく、何らかのメッセージを感受していたにもかかわらず、おれがその身体言語を理解できないがためにコミュニケーションが断絶してしまったことによるのだろう。もし、そのときに「これは難易度が高いから0.1ポイント与えられます」とか「これは0.3ポイントの減点かもしれませんねえ」などという、即物的というか教育ママ的というか点数至上主義的というか、とにかくそういうツマラン解説ではなく、彼女たちの身体言語の架け橋になるようなコトバがあれば、もっと“感動”の瞬間があったかもしれない。
ただ「身体言語だけで感動することができないワタシ」というのは、ちょっと悲しいものがあるような気がしてしまう。
なんてことをムズカシイ単語をちりばめつつ語ると、ちょっとインテリ風味を味わえるかもしれないと思ったんですけど、そうでもなかったですね。